部活動

放送部、答礼人形2体をアンティエイタム小学校に寄贈

寄贈した答礼人形

本校放送部は3月24日(日本時間)、日米間の人形交流復活を目指して製作した市松人形2体を、アメリカ・バージニア州・アンティエイタム小学校に部員が直接届けました。

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青い目の人形と放送部のこれまでの取り組み

「剱太くん」と「桜ちゃん」送り届けられた人形は、男の子「剱太くん」と女の子「桜ちゃん」の2体。人形の愛称は一般公募して決定しました。市松人形は「剱太くん」が体長57.5cmセンチで、「桜ちゃん」が57cm。昭和初期の錦紗ちりめんの衣装を着ています。人形とあわせて富山市教育委員会から発行された模擬パスポートも送り届けました。

日米間の人形交流は、当時の日米間の政治的緊張を和らげようと、アメリカ人宣教師シドニー・L・ギューリックさんが1927年から始めたのがきっかけです。アメリカから日本には1万2739体の人形が寄贈され、「青い目の人形」として知られています。富山県には約150体が贈られました。日本からはお礼として市松人形58体がアメリカに送られ、「答礼人形」と呼ばれていました。しかし、太平洋戦争で中断し、アメリカから送られた人形は敵国の人形として、その多くが失われてしまいました。孫のギューリック3世さんが人形交流の活動を復活され、本校にも「ドリスちゃん」が送り届けられました。

放送部では「ドリスちゃん」が本校に寄贈されたのをきっかけに、「青い目の人形」の取材を続け、人形交流復活のために「答礼人形」2 体を部員自ら製作しました。


Broadcasting club donates two dolls to Antietam elementary school

Broadcasting club donate two dolls to Antietam elementary schoolBroadcasting club donates two Ichimatsu dolls which are presented by club members to Antietam elementary school(Virginia, America), aimed to restart on exchange program of dolls between America and Japan.

The dolls are named "Kenta"(boy) and "Sakura"(girl). Their names were decided by the public. "Kenta" is 203 centimeters tall and "Sakura" is 57.5 centimeters tall. They are wearing Kimonos of Kinsha crepe style from the early Showa period. Club members delivered it along with a certificate published by the Toyama Board of Education.

Sydney L Gulick, started this exchange program of dolls in1927, to ease the tense political tension between our two countries. 12,739 dolls were donated to Japan by America and came to be known as "blue eyes doll". About 150 were given to Toyama. 58 Ichimatsu dolls were sent to America for reward by Japan and were called "return salute dolls". However, the interchange was forced to an interruption by the Pacific Wars. The doll sent by America was regarded with hostility as a doll of the enemy country, and most have been lost. Gulick's grandchild brought back this activity of the doll "Doris" was sent to our school.

The broadcasting club continued collecting data on "blue-eyed dolls" triggered by "Doris", and our club members presented two "return salute dolls" for doll interchange revival.


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青い目の人形と放送部のこれまでの取り組み

■シドニー・ルイス・ギューリック博士(1860〜1945年)

ギューリック博士は、アメリカの大学と神学校を卒業し、1899年(明治21年)宣教師として熊本にやって来ました。彼はその後21 年余り日本で宣教師の傍ら、大学の講師もしていました。

帰国したギューリック博士は、アメリカ全土に広がっていた日本人移民への排日運動を目にしました。悪化した日米関係を心配したギューリック博士は、友好親善のためにアメリカから日本へ人形を贈ろうと、よびかけの先頭に立ったのでした。日本で暮らすことの長かったギューリック博士はひな祭りなど日本人が古来から人形を単なるおもちゃとしてではなく、「ひとがた」の形をした人間の身代わりであり、日本人は人形に対する特別な感情があると理解していました。

日本にやって来たアメリカからの11973体の人形たちは、旅行鞄や着替えの服や帽子などを持っていました。そして人形の名前が書かれたパスポートと99セントの乗船切符まで持参していたのでした。

ギューリック博士は「友情の人形」を贈ることによって、日米の子供たちの心の間に、平和と友情への熱い思いが芽生えることを信じていたのでした。

■アメリカヘ送られた58体の日本人形たち

日本の人形交流の橋渡し役をしていたのは、ギューリック博士と親しかった、実業家である渋沢栄一でした。ギューリック博士は日本の財政状況を考えて「友情人形の返礼の心配はいらない」と日本側に説明していました。しかし日本人の心情として、アメリカの子供たちへ「答礼人形」を贈ることを決めました。しかしアメリカ側から贈られた同数の1万2千体はとても用意は出来ないので量より質を重視し、日本代表と6大都市と各県、朝鮮、台湾、樺太、満州(関東州)の58体が製作されました。大きさも80センチと子供の背丈ほどもあり、製作した人形師たちの技術の粋を投入した工芸品、美術品といったもので、人形本体に150円、衣装は50円、鏡台や箪笥などの持ち物は50円という非常に高価なものでした。ちなみに当時、普通の市松人形は5円から6円程度で、小学校の教員の平均給料は56円ぐらいでしたから、大変立派な日本人形だったのです。

この費用は、女子児童や園児一人一人から一銭ずつ集めて当てられました。答礼人形はひな祭りに贈られた青い目の人形にならい、アメリカのクリスマスに間に合うように送られました。

アメリカ各地をめぐり大歓迎をうけ、ほぼ各州に1体の割合で各地の公立図書館や博物館などに保管されることになりました。

■戦争が引き裂いた友情の証

日本へ来た「青い目の人形」たちは、それぞれの幼稚園や小学校に迎えられ大歓迎をうけていました。

1931年(昭和6年)満州事変、1937年(昭和12年)を期に日本は軍国主義国家への道を走り始めました。そしてついに、 1941年(昭和16年)12月8日、日本軍はハワイ真珠湾を攻撃し、アメリカに宣戦布告をしました。

これにより青い目の人形は敵国の人形ということになり、焼却されたり、校庭につるされ生徒、児童に竹やりで突かせたという学校もありました。

それでも、青い目の人形は生き残りました。心ある先生や学校の関係者によってそっと匿われたり隠されたりして生き延びることが出来ました。現在でも、しまい込まれて忘れられた人形が全国各地で見つかっています。

■ギューリック三世夫妻

ギューリックさんのお孫さん、ギューリック三世と奥様のフランシスご夫妻は、現在、共にメリーランド大学の数学の教授ですが、祖父の意志をついで「新・青い目の人形」を日本国内の学校に贈られています。この新人形はフランシスさんの手作りで本校の生徒のためにも一体制作していただきました。

■本校の取り組み

平成20年9月20日 国際理解講座「青い目の人形」

日米人形交流の歴史に詳しい雪吉政子先生を岡山からお招きし、お話を聞きました。戦前に行われた日米友情の人形交換の歴史的意味、また富山県内にも「青い目の人形」が何体か存在する事などについても講演していただきました。

平成20年10月〜11月 富山県内の人形に会いに行く(放送部)

放送部が富山県内に現存する人形すべてに会いに行き、当時小学生だった90歳を超える方や関係者とのインタビューを交えてテレビ番組を制作しました。

平成20年12月10日 北日本新聞

放送部の取材により伏木小学校の人形とされていた人形は、実は福岡小学校の人形だったということが判明しました。元教員の越田悦子先生のお父さん石黒正仁さんが福岡小学校に勤めて時、焼却処分になりそうだった人形を自宅に隠していたそうで、越田先生が伏木小学校に持って行かれたのは実はこの人形だということでした。